絵 画

by/高嶺 俊

 目の前で『少女』が笑っている。
 動かない彼女。
 動かない鼓動。
 しかし、確かに『少女』は笑っている。
 私に向かって微笑んでいる。
 声のない微笑。
 あでやかな表情。
 しかし、何かが足りない。
 『色』が足りない。
 鮮やかな――彼女のイメージに合う色彩。
 それが何なのか、私はそればかりを考える。
 狂おしい。
 狂おしい。
 これはまるで、恋のようだ。

※        ※         ※


「絵を完成させていただきたいのですよ」
 言う男の言葉に、リオンは戸惑いを隠すことができなかった。
 リオンは絵師である。
 有名な絵師ではない。画壇でも評判になったことはなかったし、彼の名を知るものはまずいない。無名に近い彼に、なぜそのような依頼をするのか、リオンにはわからなかった。
 それに、「絵を完成してもらいたい」――?
 「絵を描いてもらいたい」、ではなく。
 理由のわからないリオンに、目の前の男はにこやかに微笑む。
 立派な見なりの男である。恰幅な姿は「紳士」という言葉が嫌味なく似合う。それは服などの装飾品と言った即物的なものだけではなく、男の物腰、言葉遣い――ありとあらゆる洗練されたすべてがリオンを不安がらせた。
 あまりにも、自分と地位が違いすぎている。
 無意識に、キョロキョロと室内を見回してしまう。充分に金銭をかけた家具に、壁にはあらゆる有名な画家の絵や彫刻が、ところ狭しと飾られている。机の上に無造作に置かれた銀製の陶器だけで、リオンの数年――いや、数十年の収入になるだろう。リオンをここに連れてきた馬車の中の装飾だけでも、男の経済力が予想できたが、現実に見ると心から萎縮してしまう。ふわふわのクッションが落ち着かない。
「まあ、ゆっくりと説明させて下さい」
 リオンの様子に気づいたのか、男が手にしたベル(天使が刻まれた取っ手がついていた)を鳴らすと、銀髪の初老の老人――この館の執事だろう――がティー・セットを手に現れた。手慣れた仕草で紅茶を用意する。
「お飲み下さい。暖まりますよ」
 言って、男がすすめる。
 香ばしい匂いは、リオンにようやく笑みを浮かべさせることに成功させたが、すぐにリオンは緊張した。手渡された食器の高価さに気づいたからだ。
(もし落としたら……)
 自然と手に力が入る。それでも口に含んだのは、紅茶の香りが持つ魔力だろう。
 喉元を熱い液体が通り過ぎる。ほのかな匂い。ブランデーが入れられていたらしく、そのせいではないだろうが、リオンはようやく一心地つくことができた。
「あの……それで、私に御用というのは……?」
 恐る恐る口にする。
「ですから、絵を完成させていただきたいのです」
 リオンの問いに、男はやはりにこやかに答えた。
「その……完成……とは?」
 その言葉が理解できない。
「私は、確かに絵師を生業(なりわい)としていますが、絵を描くのではなく、完成させろというのは、一体……?」
「ごもっともな質問ですな」
 言って、男は立ち上がった。
 思わず、びくんと身をすくませてしまうリオン。
「それを説明するために、私の後についてきてもらえませんか」
 リオンの返事を待たずして、男は先に立って歩き始めた。

※        ※       ※

 案内されたのは、館のはずれにある一室であった。
 扉を開くと同時に、リオンにはこの部屋が何であるかを知った。鼻につく油彩の匂い。嗅ぎ慣れたそれは、妙にリオンを安心させた。
「アトリエ……ですね?」
「ええ」
 答える男の声に、どこか悲しげな響きがあることにリオンは気がつかなかった。興奮していたためである。
 室内は、およそ絵を描くものならば誰もが欲するであろう魅力に満ちていた。大きく作られた天窓からは月光の白い輝きが眩しく、部屋の壁にかけられた数々の名匠の手による絵は、いかなる芸術音痴でも目を奪われることは間違いない。そして感嘆のため息を洩らすことであろう。理想的なアトリエだ――リオンは心の底から思った。
「すばらしい……」
 思わず言葉がこぼれでる。
「これを見てもらえませんか――」 
 興奮するリオンをよそに、男は部屋の中央に歩み寄った。そこには、白い布をかぶせられたままのキャンバスがある。
「……これ、ですか」
「はい」
 リオンもキャンバスに近づく。
「ごらん下さい」
 男の手が、布を剥ぎ取ると同時に、衝撃がリオンの脳天から足先までを貫いた。絵師としての――芸術家としてのリオンの感性に激しい感情が交錯する。
 感動と――そして、激しい嫉妬だ。
 何という絵であろう。
 モチーフは、取り立てて変わったものでない。
 どこかの古びた古城を背景に、一人の『少女』が淡く微笑んでいる。それだけのものだ。
 だが、それを描く筆遣い、迫力――それはまさに天才が神の祝福を得て初めて描き得る巧妙さを持っていた。技術ではない、小細工では描くことなどできない絵。 
「こ、これは――?」
 思わず言葉をなくすリオン。
「私の娘が描いたものです」
 リオンとは対称的に、淡々と男が言う。
「……娘さんが、これを描いたのですか?」
「はい。お恥ずかしいことです」
「す、素晴らしい――」 
 茫然としたリオンの頬に朱に染まる。
「素晴らしいものですよ! こんな絵を描くことができるなんて、百年に……いや、千年に一人の才能としか言えません!!」
 我を忘れて、リオンが言う。
「あ、あのっ、よろしければ娘さんに会わせてはもらえませんかっ!? 話だけでもさせて下さい!!」
「無理です」
「な、なぜです!?」
 男は、そっと顔を伏せた。
「――死んだからです」
「……は?」
「娘は、先月亡くなりました。その絵に描かれている『少女』こそ、私の娘なのです」
 リオンは、キャンバスを振り返った。
 『少女』は、変わらない笑みをリオンに向けている。

※        ※       ※ 

 生まれながらに病弱な娘だったと、男は切なげに告げた。
 満足に外を出歩くことすらできない彼女が、唯一の楽しみとしたのが絵だった。
「可愛い娘の、ただ一つのわがままでしたから」
 このアトリエも壁に掛かっている名匠の絵も、娘に乞われるまま作り、購入したものだと言う。驚いたことに、少女は独学で絵を勉強したらしい。美しいものを見、それを感じて筆を執った作品。自分の中で養われた美意識を、感性を一枚のキャンバスに描いていく。それが少女の喜びだった。上達するだとか、他人に見せることを目的としたものではない。そんな無垢な魂を持って描かれたからこそ、少女が描いた絵はたまらなく美しいのかもしれなかった。
「娘は、よく自分を描きました。外の世界に憧れていたんでしょうな、キャンバスの中には様々な風景の中に笑う娘が描かれておりました。想像の世界では、娘は自由に走り回ることができたのです」
 そんな彼女が、最後に描いた作品にして最高の作品がリオンの前にある。
「親馬鹿だと笑っていただいても構いませんが、私は娘を天才だと思っているんですよ。もちろん、娘が死んだ今でもね」
 薄く男が笑う。
「そして、あなたも――」
「私……ですか?」
 意外な言葉に、リオンはまじまじと男を見た。
「はい。実は、先月の個展を私は拝見させていただきました」
 無名のリオンが、わずかな収入をやりくりし、知人たちに片端から声をかけてようやく実現した初めての個展であった。貧しいリオンは、この個展を機に多くの人々、画壇の面々に認めてもらいたいという野心を持っていた。ただ絵が好きというだけでは食うことができないのが現実だからだ。
 しかし、結果はさんざんなもので、いくら招待状を送ったところで画壇の批評家たちが個展に足を運ぶこともなく、一週間は開くはずだった個展はわずか三日で打ちきられた。そんなリオンの個展を見たのだと、男は言うのだ。
「正直なことを言いますと、あなたの個展を見る予定はなかったのです。怒らないで下さい。たまたま馬車が故障して、修理に時間がかかると言う時、偶然目の前にあったのが、あなたの個展の会場だったのです。東洋で言う『エン』というのは、きっと、こういうことを言うのでしょう」
 娘が絵を描くこともあり、絵に人並みならぬ興味を持っていた男は、リオンの絵を見て驚愕した。
「世の人々が、あなたの絵を評価できないのは、神をも恐れぬ愚行であると私は確信を持って言えます。あなたは、必ず世に出る人間でしょう。私は、それを直感しました」
 てっきり悪い冗談かと男を見たリオンだが、男の顔は真剣だった。
「私は、長い間娘の絵を見てきました。私が天才と信じる娘の絵をです。娘に誓って、私はあなたを天才と感じました」
 熱い口調で、男はリオンを誉め称える。
「娘も、私と同じ意見でした。僭越ながら、私はあなたの絵を一枚買わせていただきました。驚くほど安い値段でしたが、私の子孫は一つの大いなる財産を受け継ぐことになるでしょう。あなたの絵を見た娘の笑顔を、私は生涯忘れません――」
 そう言えば、名匠の絵画に混じってみすぼらしい額の絵が一枚あるなと思った。立ち位置のせいでよく見えなかったが、あれは自分の絵だったのか――。
「あ、ありがとうございます」
 男の情熱的な言葉に、リオンはそう言うのが精一杯であった。
 男は言う。
「ですから、そのようなあなただからこそ――娘も認めたあなただからこそ――絵の完成をお願いしたいのです」
「完成……ですか?」
 戸惑いながら、リオンは改めて少女の絵を凝視する。
 ようやく、リオンにも男と意図が理解できた。 
 少女の絵の迫力に気圧されていたため気がつかなかったが、その絵は未完成だった。完成させる前に、少女は死んでしまった。
 古城を背に淡く微笑む『少女』――その頭上に輝いているはずの月は、周囲の色彩からすっぽりと抜け落ちたように無色であった。

※        ※       ※

 どのような色がよいのか。
 どのような色が、『少女』を美しく際立たせるのか。
 リオンは絵を前にして、それだけを考えて過ごした。
 男は全面の協力をリオンに約束してくれた。衣食住はもちろんとして、リヨンの欲するありとあらゆる画材を、男は大金を惜しげもなく使って手に入れてくれる。
 だが、どの画材も色彩もリオンを満足させることはなかった。
 白色を放つ月がいいのか、金色(こんじき)に輝く月が良いか。
 どれも平凡に思えた。
 少女が欲した色だとは思えなかった。
 リオンは彼女がこれまでに描いた絵を残らず見、彼女についての話を聞き、彼女が見た絵を本を風景を見た。彼女のすべてを知ることで最高の絵を描こうとしていた。ただ月だけを月だけを考える。少女のことを考える。死んでしまった、無名の天才を。
 その思いは恋に似ていた。
 焦がれ考え、考え焦がれる。少女のすべてを感じるようにリオンは絵筆を持ち、描けず、苦悩し、叫び、描こうとして投げ出す。もともと痩せていたリオンの身体は骨と皮だけになり、憔悴(しょうすい)した瞳の中には狂気の光が灯(とも)っている。リオンは否定したが、彼もまた天才であるがゆえに全身全霊をかけて絵と戦っていた。
 絵に憑かれていた。
 少女に憑かれていると言ってもいい。
 月に色を塗る、それだけで少女のすべてを台無しにしてしまうかもしれないのだ。
 狂おしいほどの夜が過ぎ、憎らしいほどの朝を迎え、とめどなく昼が終わる。満足に睡眠すら取れない意識のリオンは、ふと夜中に目を覚ました。
 誰かに呼ばれた気がした。
 リオンは立ち上がり、力の入らない足でアトリエに向かった。
 導かれるように、ドアを開く。
 リオンは驚きに目を見開いた。
 部屋の中央――天窓から照らされる月光のもと、白いゆったりとしたドレスを着た『少女』がそこに立っていた。
 絵ではない。
 実物の少女。
 知らず、リオンは涙していた。焦がれた恋の相手を見つけたように、ゆっくりと『少女』へと近づく。夢だろうが幻だろうが、亡霊であっても構わなかった。
「おお……おおっ……おおう……」
 嗚咽にも似た調べがリオンの口から洩れる。
 リオンは泣いていた。
 感動のあまりに涙があふれる。
 やはり、これは恋だったのかもしれない。
 よろよろと近づくリオンに、『少女』は天使の笑みを浮かべ、そっと空を指さした。そして、その手を幼さの残る胸に当てる。
 『少女』の仕草に、リオンは操られるように空を――天窓から覗く月を見つめ、ついで自分の胸に手を当てる。
 激しく脈打つ、自分の鼓動。
 リオンの目が大きく見開かれた。
「そうか――そうだったのか!!」
 リオンが叫ぶ。
 リオンの口許に、たまらない笑みが浮かんだ。
 狂気の微笑。
 リオンは『少女』を見る。天使の微笑を浮かべた『少女』が、にっこりと頷く。
 頭上から、赤い月が目映い光を二人に投げかけていた。

※        ※       ※

 翌朝、男はアトリエに顔を出した。
 絵に没頭したいからというリオンの要望のため、自分からアトリエに足を運ぶことはなかった男だが、今朝は様子が違った。
 ドアを開けた男の眉が、かすかにつりあがる。
 鼻をつく血の匂い……部屋の中央、キャンパスを前にしてリオンが血を流して死んでいた。自分でえぐり出したらしい心臓がその手に握られている。
 不思議と、リオンの死に顔は穏やかで、微笑みすら浮かべてあった。
 男は、リオンの死体の前にあるキャンバスに歩み寄ると、感嘆した声をあげた。
「お見事――」
 赤々と染まった月に照らされる『少女』は、たまらなく美しかった。
 この世のものとは思えないほどに。
「……でもね」
 ぼそりと、男が言う。
 答えるはずのないキャンバスに向かって。
「おまえのわがままには、ほとほと呆れてしまうよ。『天才しか食べたくない』だなんて、グルメにも程がある。彼ほどの天才を探すのに、またどれだけの時間とお金がかかると思っているんだね?」
「だって、お父様――」
 絵の中の『少女』が愛らしく告げる。
「それこそが、“芸術”ってものじゃないかしら?」
 悪びれることもなく、『少女』は高らかに笑った。 
 
(了)

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