茜色の幻想

by/高嶺 俊

 海の音が聞こえない少年。
 空の色が見えない少女。
 交錯する世界の中で、決して出逢うことのなかった彼らに、この物語を捧げたい。

※        ※        ※

 放課後の学校には、独特の雰囲気が漂う。
 空虚な解放感。
 遠くから聞こえてくる、ざわめきと静寂。
 対比なる気配が醸し出す雰囲気は、なぜか奇妙な悲しい気分になる。
 パレードを終えたサーカスのように、僕はその雰囲気の中に悲しみを見る。
 僕は夕日の照らす赤い教室で、一人窓から外を見ていた。
 たまらなく孤独を感じていた。
 赤い太陽が目に眩しい。長い長い僕の影が、教室の中にどこまでもどこまでも伸びていく。
 僕は、たまらない孤独を感じている。
 一体、いつからこんな気持ちになったのだろう。
 『あの日』を境に、僕は世界の『音』が聞こえなくなった。
 学校に来る。友人と喋る。笑う。教師が僕を叱る。ごく当たり前の過去(にちじょう)。
 すべての『音』が聞こえない。
 もちろん、彼らの言っていることは理解できる。そう言った意味の『聞こえない』ではない。耳はちゃんと言葉を運んでくるし、それはむしろ必要以上に聞こえてくるほどである。……陰口も悪口もすべて。
 けれど、僕は怒りを覚えることはなかった。
 できなかった。
 『音』が僕を素通りする。
 感情と感覚が、僕の中で奇妙にズレてしまっている。
 学校で、教室で、大勢の人間がいて大勢の人間が笑って大勢の人間が叫んで――なのに、僕には『音』が聞こえない。
 声が聞こえない。
 理由は、なぜかわからない。
 それは僕の両親が犯した罪悪(つみ)が原因かもしれなかったし、ただ一人生き残ってしまった僕が感じる悔恨が原因なのかもしれなかった。
 事故があった。
 両親が死んだ。罪もない子供たちを道連れに。両親は口論していた。二人は、息子である僕から見ても仲が悪かった。感情の制御の狂った――怒った父親が「ワカレテヤル」と叫んだ時、父親は前を見てはいなかった。
 激しい衝撃。
 身体がバラバラになるような激痛。
 父親はもちろん、父親を怒らせた軽薄な女――母親も死んで、しかし僕は生き残った。事故の相手は正反対で、子供だけが死んだ。
 現実が、ひどく曖昧に感じられる。
 そして、僕の前から『音』が消えた。
 窓から見える赤い夕日が目に眩しい。
 『音』がなくても、僕はそれがとても綺麗だと思った。
 無意識に伸ばした僕の手を、夕日が赤く染める。
 赤い輝きは、例外なく僕を包み込む。
 窓から、海が見えた。
 なぜか僕は激しい高鳴りを感じて、教室を飛び出した。
 赤い廊下を駆ける。赤い階段を走る。
 学校の裏手に広がる海は、すべてが赤く染まっていた。
 水も波も砂も岩も、すべてが赤い。
 僕もまた、赤く染まっていることだろう。
 少しの例外もなく、僕も世界も赤く染まる。
 誰も僕を差別することはない。
 それが、心地よかった。
 無性に泣きたい気持ちになった。
 それは悲しいからか、嬉しいからか、僕にはわからない。
 けれど、涙は出なかった。
 感情の歯車が狂ってしまっているからなのしもしれない。その証拠に、ほら――僕には、海の『音』が聞こえない。
 うち寄せる波の音(ね)も、水と砂が奏でるざわめきも、海の『音』が聞こえない。
 僕は、無性に悲しい気持ちになった。
 僕には『音』が聞こえない。
 赤い夕日に身体を心を照らされながら、僕は海を見つめた。
 じっと。 
 何かを待つように。
 このまま赤い海を見つめていれば、いつか『音』が戻ってくるのではないか――そんな直感に似た予感があった。
 いつしか、夕日は沈もうとしていた。
 赤い世界の代わりに、黒の世界が訪れようとしている。
 ……もう少しだ。
 もう少しで、何かが聞こえるかもしれない――!!
 海の彼方に沈む夕日を求めて、僕は冷たい海に飛び込んだ。
 歩く。
 冷たい感触。
 進む。
 服が重い。
 手を伸ばす。
 空気がない。
 僕は赤い夕日を想像しながら、僕は暗闇の世界に旅立つ自分の声を聞き取ろうと努力した。
 ごぼこぼと泡が口許からこぼれる。
 懸命にもがく僕の足は、無意味に空虚な水を蹴った。
 僕には、海の音が聞こえない。
 結局、最後まで『音』は戻らなかったな――奇妙に醒めた意識で、僕は海の中に消えて行った。

※        ※        ※

 姉が死んだのは、今の私と同じ歳の時だった。
 歳の離れた姉。
 幼心に、美しいと感じた姉。
 自殺だった。
 ゆらゆらと揺れる、赤い水。
 細々と流れる蛇口からあふれる水。
 帰宅した私の目の前で、姉はすでに死の世界に旅立っていた。
 浴槽が赤く染まり、横たわる姉の突然の光景に驚く私は、声も出せずその場に座り込んだ。
 お気に入りの白いスカートが、ジワジワと赤に染められていく。
 淡い赤。
 姉の手首を彩る鮮明な赤。
 不自然に赤い姉の唇。真っ赤なルージュ。
 姉の口許は、うっすらとした笑みが浮かべられていた。自虐的でも悲しみでもない、一種満足したような微笑。ゆっくりと赤い海に沈む姉を見て、私はなぜか綺麗だと思った。 
 姉の死の理由は誰も知らなかった。
 私は、知っている。
 姉は、もっとも美しい頃に死んだのだ。
 美しい花びらが開くよりも早く。
 散ってしまうよりも、咲くことを拒んで。
 私だけが、その理由を知っている。
 言葉はなくともわかる。同じ赤に染まったのだから。
 あの日から、私は世界が色あせて見える。
 姉の死が見せた赤よりも、鮮明な色があるとは思えなかった。

※        ※        ※

 放課後の空気を身体全体で味わいながら、私は一人空を見ていた。
 赤い夕日が、教室を照らす。
 長い廊下を、階段を、私が孤独にたたずむ屋上を照らす。
 屋上には、普通私たち生徒は入れないはずだが、それを拒む扉の鍵が壊れていることを、生徒たちの誰もが知っていた。
 だから、誰もが屋上に出ることができた。
 授業中、放課後、休み時間。一人になりたい時は誰にでもある。
 私は、放課後の屋上が好きだった。
 静けさと寂しさにも似た雰囲気の漂う放課後で、私は空を見るのが好きだった。
 誰もこない夕暮れの時間。
 私は必ず天を仰ぐ。
 青い空。
 曇り空。
 そして……赤い空。
 夕日が綺麗だとクラスの女のコが言った時、私はそれを信じようとしなかった。あの姉の赤よりも美しい赤があるとは思えなかったから。
 やはり、私には空は色あせて見えた。
 けれど、今日は違う――そんな直感にも似た予感があった。
 だから、私は今日一日が晴天であると知った時、飛び上がらんばかりに喜んだのだ。
 今日――数年前の今日、姉が死んだ。
 そして、私は彼女が死んだ時と同じ歳になった。
 だから、今日見る空は違うと信じた。
 なのに……私は、空を見つめる気になれなかった。
 私は、手に持っていた小さな封筒に視線を向けた。
 クラスの男のコからもらったものだ。
 まだ、封を切ってはいない。
 なぜかはわからない。
 ただ、それを見てしまうと自分が変わってしまう気がした。
 恋に怯えているつもりはない。けれど、それを知ることで、私の中にある花が咲いてしまうのではないかと怯えた。
 姉は、美しいままに死んだ。
 蕾(つぼみ)のまま、咲くことはなく、自ら望んで散った。
 私がそれを知ることは、裏切りのように感じられた。
 私は手紙をじっと握りしめたまま、屋上で一人立ちつくしていた。
 私を夕日が赤く染める。
 長い長い影が落ちる。
 私は、手紙を見るべきか、見ずに返すべきか決意がつかないまま、途方に暮れた顔で、ようやく空を仰いだ。
 夕日が私を染める。
 赤が見える。
 もしかすれば、今日こそはと願った夕日。
 その赤は、私にはひどく色あせて見えた。
「……ウソつき」
 誰に言うでなく、私は呟いた。
 何も変わらない。
 これまでも。
 これからも。
 なぜだが、私はひどく悲しい気持ちになった。
 泣きたい。
 涙があふれない。
 感情の歯車が狂ってしまっているからだ、私は初めて姉を恨めしく思った。
 美しい姉。
 憎らしい姉。
 姉は今日死んだ。私と同じこの歳に。
 夕日が照らしつける中、私は結局手紙を見る決意がつかないまま、屋上のフェンスを握りしめていた。
 空が高い。
 赤い空なんて、嫌いだと思った。
 頬をよぎる風は早く、落下するよりも早く私は意識を失った。
 私は空の『色』が見えない。
 理解することはできなかった。 

※        ※        ※

 交錯する世界。
 音のない海と、色のない空。
 出逢うことのなかった二人は、出逢うはずのない死を迎え、出逢えなかったことを後悔する必要もなかった。
 二人が、もしも出逢うことがあれば、少年は『音』を、少女は『色』を取り戻すことができただろうか。
 わからない。
 放課後の教室で、茜指す夕日の廊下で、赤い階段で「わたし」は無性にそれを知りたかった。
 ……「わたし」もまた、世界が薄らいで感じられる一人なのかもしれないから。
 
(了)

 

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