潮騒が聞こえる
by/高嶺 俊
耳の奥で、『音』が聞こえる。
さらさら、さららと流れる音は水。
さわさわ、さわわと擦れる音は砂。
水の調べ、砂の囁き――『音』に意識(みみ)を傾ければ、もっと複雑で、もっと様々な音を聞き取ることができる。けれど、それは現実に聞こえる音ではなかった。少年の耳の奥にだけ棲む『音』だ。
深い深い意識の底から聞こえてくるその『音』は、絶えることなく幼い少年の耳に語りかける。おそらくは、生まれ落ちた瞬間から、もしかすれば、生まれるよりもずっと以前に、『音』は少年と共にあったのかもしれない。呼吸のように当然で、生活することにおいて、『音』はまるで苦にならない。
少年に取って『音』は決して不快なものではなく、むしろ心地よい響きを持って彼の心を癒した。まるで母の――顔すら見たことのない母の――子守歌のように、少年は『音』に甘えて眠るのが好きだった。どれだけ不愉快な現実も、『音』を聞くことで忘れることができるのだ。
夜――瞼を閉じ、小さな両手で頭を包み隠すようにして、そっと耳を塞ぐ。そうすることで、日常は囁きほどにも聞こえない『音』の海に、少年は溺れることができるのだった。
さらさら、さらら、水が流れる。
寄せては返すその囁きが、少年の涙を消してくれる。水が砂を運び、さわさわ、さわわと砂が囁く。水の底で擦れる砂は美しく白く澄んでいて、その合間を小さな蟹が動く『音』が聞こえてくる。ぱしゃりと軽やかな『音』を立てて、魚たちがきらびやかに水面を打つ。
もちろん、それらはすべて少年の想像に過ぎない。『音』に意識を傾けることで、閉ざされた瞼の裏に鮮明な映像(ヴィジョン)が浮かぶのだ。どこまでも続く深い海の幻景(げんけい)。
現実の闇の向こうに、一面の青が広がる――
それは奇妙にリアルな映像であった。もしも、少年と感覚を同じくできるものがいれば、驚愕に言葉を失うに違いない。何しろ、少年は海を見たことはなく、海というものが存在することすら知らなかった。緑深き山地に棲む彼に、海を知り得る機会などない。周囲が、意図的に知らせなかったこともある。
けれど、解(わか)る。
『音』がすべてを伝えてくる。魂に刻まれた記憶のように、『音』と映像は少年の中に広がっていく。
ごぽう、巨大な息吹とうねる水の『音』。それを聞くだけで、巨大な鯨が王者のように、ゆったりと水の中を泳ぐ姿が脳裏に閃(ひらめ)く。しゃらら、しゃららと聞こえる人間(ひと)には不可聴の『音』。あれは死したプランクトンが雪のように海峡に降る音だ。白い白い、幻想的な光……。
その光に魅せられて、少年は耳を覆う手を離し、星を掴むように空に手を向ける。途端に薄れ行く『音』。突然に戻ってくる現実に、思わず閉じた目を開けた。
少年は思わず息を飲んだ。
目の前に立つ祖母の形相。怒りとも恐怖とも取れる表情を浮かべ、それを懸命に隠しながら、祖母は――少年の唯一の肉親は――ゆっくりとその手をあげた。
ぴしゃり。
幼い少年の頬が鳴る。
「……言ったはずだよ、兵太(ひょうた)」
祖母――みつが言う。
「音に飲み込まれちゃいけない。音に溺れちゃいけない」
何度も何度も繰り返される言葉。祖母の言葉に呼応して、少年――兵太の頬が音を立てる。
「音に飲み込まれちゃいけない。音に溺れちゃいけない――」
無表情に兵太を打つみつの目から、静かに涙があふれだす。
「不憫な子だ……可哀想な子だ……」
嗚咽を洩らしながら打つみつに、兵太もまた何度も告げた言葉を言うのであった。
「ごめんよう、ばあちゃん。ごめんよう、ばあちゃん。二度と音に飲み込まれたりしないよう。二度と音に溺れたりしないよう」
必死になって謝る兵太の耳の奥では、止まない『音』が囁いている。
「ごめんよう、ばあちゃん。ごめんよう、ばあちゃん……」
『音』に意識を傾けながら、兵太の口許には知らず恍惚の笑みが浮かんでいた。
さらさら、さらら。
海へおいで。
海へおかえり、兵太――
さわさわ、さわわ。
海に還るのよ、兵太――
『音』の中に、まだ見ぬ母の声が聞こえる。
※ ※ ※
しんしんと雪が降る。
幻ではない、本物の雪。
肌を刺す寒さの中、吐く息すらも凍りついていく。
深い山中に棲む兵太たちに取って、雪は決して美しいだけのものではない。むしろ、閉ざされていく生活に、身体も精神(こころ)も病んでいく。
兵太は、雪が嫌いだった。しんしんと降り積もる雪は、すべての音を吸い込み、奪っていくように感じられるからだ。彼の耳の奥に棲む『音』までも。だから、兵太は雪が恨めしかった。
吐く息が白い。
ばちっと、音を立てて薪(まき)が爆ぜた。ちらり、とそれに目をやった兵太の視線は冷ややかだった。
もう、兵太の顔に幼さは薄い。成長した兵太の身体は薄汚れた着物に覆われ、髪もまた束ねただけのみすぼらしいものでありながら、その顔はまるで天女のように美しい。白い肌に、憂いを湛えた瞳はわずかに青みがかって見える。寒さを少しでも凌ぐためか、首に巻かれた黒い布が、兵太の口許を覆い隠していた。
膝を抱え、壁に背を預けた姿勢のまま、兵太は耳の奥に棲む『音』を聞くために目を閉じた。
「……兵太、いるか?」
海の幻景の代わりに、現実の声(おと)が兵太の耳に届いた。
「いるよ、ばあちゃん」
優しく、兵太が答えた。
ばちっ、薪が爆ぜる。
目を開けた兵太の視線の先に、みつの姿がいた。
大柄な身体を横たわらせ、枕元にはわずかばかりの薬が置かれている。みつの瞳は大きく開かれ、睨みつけるように天井を見つめていた。
けれど、その瞳には何も映っていないことを、兵太は知っている。それほど衰弱が激しい。みつが死病に取り憑れていることは、一目見れば誰にでも理解できた。
浅黒い肌は蝋(ろう)のように白く染まり、肉は落ち、けれどみつの表情は巌(いわお)のように固い。
こうして見ると、みつと兵太はまるで似ていなかった。祖母と孫という関係だけでなく、血筋を感じさせない顔立ち。かつて、兵太がそれを問うた時、みつはジロリと孫を睨みつけ、吐き捨てるように呟いた。
「……おまえは、母親に似たのだろうよ」
告げるみつもまた、兵太の母の顔を知らない。
「兵太、側に来い」
荒々しい厳しさと、不器用な優しさを持って兵太を育ててくれた祖母の声に、兵太は素直に従った。
枕元に座ると、みつの手をしっかりと握る。
「いるよ、ばあちゃん」
「ああ……」
言って、みつは静かに目を閉じた。
「兵太、ワシはもうじき死ぬ」
淡々と、みつは事実を口にした。
「……ばあちゃん――」
何と言っていいか解らず、兵太は言葉を飲み込んだ。
「気休めを言っても始まらん。ワシは死ぬ。それも、あとわずかの間だろう」
「……………」
「だから、ワシはおまえに告げねばならぬことがある。尋ねなければならないことがある」
言って、みつは弱々しく咳き込んだ。
「ばあちゃん……無理しちゃ……」
兵太の、みつの手を握る力が強くなる。
「今、薬湯を作るから――」
「いらん。時間がない」
立ち上がろうとした兵太を、みつは兵太の手を握り返すことで止めた。
みつが言う。
「おまえ、海に行くね?」
「……うみ?」
「ああ、海だ。おまえの耳の奥で聞こえてくる『音』の正体だよ」
言って目を開き、兵太をジロリと睨みつけた。みつの目は見えず、声のする方向に顔を向けただけだと解ってはいても、幼い頃からの習慣で、兵太の身体は思わず硬直してしまう。
「ワシが気づかないと思っていたのか、兵太? あれほど音に飲み込まれちゃいけない、音に溺れちゃいけないと教えたのに」
みつは、淡いため息を洩らす。
「ごめん、ばあちゃん……」
「いいさ。仕方がないのかもしれない」
諦めたようにみつは告げると、再び目を閉じた。
「おまえの父親も、そうだった」
「……とう、ちゃん?」
記憶にない父。兵太の父――つまりはみつの息子も、兵太が生まれてすぐに死んだ。そう聞いている。
「そう、おまえの父親もまた、音に溺れてしまった一人だった――」
みつは、静かに語り始めた。
「ワシたちは、海で暮らしていた」
兵太の父は漁師だった。父親、そしてみつが暮らす漁村には、奇妙な伝説があった。
――冬の海。月のない、星だけが瞬(またた)く夜には漁に出てはいけない。海に近づいてはいけない。
「どうして?」
「……『音』に取り憑かれるからさ。ワシたちは、皆そう聞いていた」
月のない夜には、人間(ひと)ならぬものが岸辺まで現れる。そして、歌うと言う。深い深い海の『音』を持って、人を誘(いざな)う。寒い寒い冬の夜に。
「ワシたちは、その言葉を忠実に守ってきた。真実はどうあれ、語り継がれてきた話には理由があるものさ。誰もが、口に出さなくてもそれを知っていた。けれど、おまえの父親は禁忌を破った」
若さとは、時に無謀なものである。大人たちの語り継ぐ話など、まやかしとしか思えず、兵太の父親は数名の仲間と共に漁に出た。冬の海――月のない夜、星の降る夜に。
不思議と、そんな夜は波も凪ぎ、魚も多く集まることを父親たちは知ってしまった。
「……息子たちは帰って来なかったよ。静かな海で、事故を起こすほど経験の浅い連中ではなかったはずなのに、一人も帰ってこなかった」
どれだけ探しても、亡骸(なきがら)すら見つけることはできなかった。数日が経ち、無人で海上を漂う船に、おびただしい血痕がこびりついているのを見つけた時、みつは息子たちがもう帰ってこないと朧げに悟った。
「けれど、息子は帰ってきたのさ」
亡骸のないまま葬式を出し、ようやく悲しみが薄れようとした一年後、兵太の父親は帰ってきた。ボロボロになった着物に、惚けたような表情を浮かべ、ぽつりと海岸に佇んでいる姿を発見したのは、みつだった。
全身から海水が滴り、その腕には一人の子供が抱かれていたのだと言う。
「それがおまえだよ、兵太。おまえは、海からやって来たんだ――」
死んだと思っていた息子を見た時のみつの驚きと喜びは、想像以上のものだっただろう。
けれど、喜びは困惑に変わった。海から帰ってきた息子は、以前の息子とは完全に別人に変わり果てていたのだ。
どれだけ話しかけても、答えることはない。
見開かれた瞳には、何も映ってはいないようだった。何があったのか、一緒に漁に出た仲間たちがどうなったのか、みつはもちろん、村人たちが代わる代わる尋ねてみたが、父親の様子が変わることはなかった。
まるで魂が壊れたかのように、朝から晩まで恍惚の笑みを浮かべたまま、身じろぎすらしない。そうした時、父親は必ず目を閉じ、耳を手で覆っていた。
「ちょうど、おまえと同じように、父親(アレ)もまた『音』に溺れていたんだろうさ……」
みつが、悲しげに言う。
そして、ある夜――やはり月のない、星だけが瞬く夜、父親の姿はみつの前から消えた。亡骸は、とうとう見つからず、一年待ってみつは息子の二度目の葬式を出した。
「海に呼ばれたんだろうと、ワシは思った。『音』が聞こえる、『音』が聞こえる――息子は何度もそう繰り返しながら、耳を塞いで微笑んでいたからね」
そして、みつは兵太を連れて漁村を去った。
予感があった。このまま海の近くにいれば、兵太もまた息子と同じように海
に消えてしまうと信じた。だから、山に逃げた。緑深き山里に身を寄せ、海というものを知らせることなく育てたはずの兵太だが、やはり『音』から逃れることはできなかったらしい。
その理由が、みつには解っていた。
その理由が、みつには悲しかった。
兵太が不憫でたまらない。
衰弱し、肉と皮だけになった腕がそろそろと伸び、兵太の首を覆う布に触れた。みつの見開かれた瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。
「……兵太、今もおまえの耳の奥には『音』が聞こえているのだろう?」
「うん――」
わずかなにためらった後、兵太は正直に答えた。
「……そうか」
みつの手が、兵太の首許からゆっくりと離れた。小さな音を立てて、その腕が床を叩く。
こつん。
こつん。
みつが、囁くように言う。
「……海へ行け、兵太」
「ばあちゃん」
「……海へ還れ、兵太」
みつの瞳から、すっと光が消えた。
「……ばあちゃん?」
兵太が問う。
けれど、みつはピクリとも動かない。
――海へ行け、兵太。
――海へ還れ、兵太。
母の元に。
瞳を見開いたまま語りかける祖母の死に顔を見つめながら、兵太はそっと手で耳を塞いだ。
外には、しんしんと雪が降り続いている。
※ ※ ※
降るような星が空に瞬(またた)く。
闇がいつもより濃く感じるのは、月が出ていないからに違いない。
兵太は、生まれて初めて海の音を聞いた。耳の奥に棲む『音』と、寸分も狂いのない現実の音。
潮騒が聞こえる。
闇に身を委ねるように、兵太は瞳を閉じたまま、海の音に耳を傾けた。
さらさら、さらら。
水が流れる。波が揺れる。かすかな音が心地よい。
さわさわ、さわわ。
砂が擦れる。砂が囁く。確かな音が心地よい。
幾度も幾度も渇望した『音』。
肌を刺す冬の海には、兵太以外の人影は見えなかった。もしかすれば、みつの言う不吉な伝説のせいかもしれない。
兵太は、何をするでなく茫然と海辺に佇んでいた。首に巻きつけた布を、そっと指先で触れる。
兵太には、解っていた。
兵太の耳の奥に棲む『音』が、これから訪れるモノの正体を告げていた。
兵太は待った。
時間が経つのを、夜が深まっていくのを待った。吐く息が白い。けれど、興奮と期待が、兵太に寒さを忘れさせた。
瞼を閉じ、兵太は海の音に意識(みみ)を傾けていく。暗闇が音をかき消し、また吐き出していく。
さらさら、さらら。
水が流れる。
さわさわ、さわわ。
砂が擦れる。
海が囁く。
海が哭く。
空に光る、かすかな星の光に照らされて、『それ』が現れるのを、兵太は待った。
ぱしゃん……
どれだけの時間が過ぎたのか、耳の奥でなじんだ『音』が聞こえた。現実の音。魚が星の光を求めて飛び上がり、水面を叩く音だ。
違う。
似ているが、こんな軽やかな音ではない。
ぱしゃん……
波がぶつかる音。水をかきわけ、魚よりも大きなモノが海面に上ってくる。
似ている。
似ているが、まだ遠い。
ぱしゃん……!!
激しく水を打つ音、魚よりもはるかに大きな――人間ほどもある『それ』が波をかきわけ、水面を激しく叩く。星の光を求め、月の光を嫌い、闇の支配する海から『それ』は海面から顔を覗かた。
瞳を閉じていても解る。
自分に注がれる無数の視線が、チリチリと肌を貫いていく。そして、聞こえる歌声。高く低く澄み切った濁りきった複数の声が、岸辺に立つ兵太に語りかける。
――おかえり、兵太。
歌声の中に、兵太は幻の『音』を聞く。
――お還り、兵太。
視線が注がれる。幻の歌声に誘(いざな)われる。
耐え切れず兵太は目を開き、そして見た。
海面に、無数の瞳が篝火(かがりび)のように浮かぶ。ゆらゆら、ゆらゆら、波間に漂う。
それは、人間(ひと)であって人間でないモノの瞳であった。星の光の下、波間に漂う人々の瞳は青く燃え、その容貌は天女を思わせるほど秀麗である。なのに、その身体は腰の辺りから下が激しく変貌していた。
――人間から魚へと。
水の中で光る鱗が、星の光を受けて、てらてらと輝く。無数の人魚が、海中から兵太を見つめ、唇をすぼめて歌を歌う。口許から、驚くほど鋭い牙がチラリと覗いた。
人魚たちはすべてが女性であり、長い髪を水に濡らして兵太を誘(いざな)う。
兵太の口から、呟きに似た言葉が洩れた。
「……かあちゃん」
兵太の瞳から、知らず涙があふれていた。頬を伝う涙を拭いもせず、兵太はゆっくりと人魚の元へ歩み寄っていく。歩みながら、兵太の手が首に巻かれた布に伸びた。幾重にも巻かれた布を慌ただしく外していく。
しゅるる
しゅるる
布が取れ、砂の上に無造作に落ちる。
ひゅううううう……
風のような、歌のような音が兵太の首から洩れた。初めて『それ』を見たみつの驚きを、悲しみを兵太は忘れることができない。兵太を抱きしめ涙した、祖母の姿が脳裏をよぎった。
首に刻まれた数本の傷。
それが、ただの傷でないことを兵太は知っている。人間が持ち得ない器官――鰓(えら)。
兵太の口許が笑みの形を作った。そこに覗く歯は鋭く尖り、人間の歯とは明らかに形状が異なっている。服に覆われて見えないが、その背にも、手にも、足にも、鱗としか思えないモノが兵太には生まれつきあった。
みつは、その理由を悟っていた。
だから、海から逃げた。緑深き山中で、隔離するようにして兵太を育ててきた。
……兵太は、人間と人魚の子であったのだ。
兵太の目から、止めどなく涙があふれる。ゆらゆらと進むその足が凍りつきそうな海水に満たされていく。不思議と冷たさは感じず、むしろ水は暖かで、自分を歓迎してくれているように思えた。身体の半分が沈むまで歩いた後、兵太は水中に身を踊らせた。
「かあちゃん……」
ごぼごぼと唇から空気の泡がこぼれたが、けれど苦しいはずはない。泳いだことなど一度もない兵太だが、身体がどうすればいいかを知っていた。憶えている水の感触。忘れることのない海の記憶。
――初めて、兵太の耳の奥から『音』が消えた。
満たされていく心、癒されていく身体、歓喜の笑みを浮かべながら、兵太は人魚たちに向かって泳いだ。
「かあちゃん……」
兵太が呟く。
口許に広がる笑み。
「かあちゃん……」
人魚たちは、静かに兵太が自分たちの側にたどり着くのを待っていた。
慈愛に満ちた秀麗な顔が、じっと兵太を見つめている。
その中で、一際美しく、一際大きな笑顔を湛えた人魚がいた。
兵太は理解した。兵太の中に流れる血が、肉親を敏感に嗅ぎわける。
「かあちゃん!!」
大きく腕(かいな)を広げた人魚に――母に兵太は飛び込んだ。涙が溢れてたまらない。祖母の死にも涙を見せなかった兵太は、嗚咽を洩らしながら初めて逢った母を抱きしめた。
さらさら、さらら。
その耳に、波が優しく囁きかける。
――おかえり、兵太。
さわさわ、さわわ。
海の底で、砂が波に打たれて擦れた。
――お還り、兵太。
「かあちゃん……かあちゃん……」
声を荒げ、兵太は言葉を紡ごうとするが、しかし言葉は出てこない。
母親である人魚は、そんな息子の姿にたまらない微笑を浮かべ、そっと腕を兵太の背に回した。きつくきつく抱きしめる。『音』が消えていく。海の幻景が消える。幻ではない現実を、兵太はついに手に入れたのだ。
『音』の呪縛から逃れたことを感じ、兵太の目から新たなる涙がこぼれた。
「かあちゃん……」
静かに目を閉じ、ただ母の抱擁に身を委ねる兵太の耳から『音』が消える。
母の口許が、笑みの形に広がった。
鋭く尖った牙が、満面の笑みの奥に覗く。
慈愛の笑み――残忍な微笑。
がぶり。
ひゅううううう……
兵太の首から、風のような音が鳴った。
同時に吹き出す、赤い赤い血潮。
「かあ、ちゃん……?」
首筋を咬み切られ、茫然と見つめる兵太の前に、母である人魚は、にたりと邪悪に微笑んだ。その唇は、兵太(むすこ)の血で染まっている。首許がぐびりと動き、切り取った兵太の肉を飲み込んだ。
にたりと、さらに微笑む。
「な……ん、で……?」
末期の問いに答えはなく、兵太の瞳から、すうっと光が消えた。
ものの本にある。
人魚――美しき乙女と魚の身体を持つ異界の民。その姿、天女の如く美しく、されどその性(さが)、狂悪にして残忍なり。
冬の海、月のない星降る夜に、繁殖のために海辺に近づくことあり。美しき姿と美しき声を持って男を誘い、時に子を成す。人魚に取って人間(ひと)はただの餌でしかなく、生まれた子が女なら仲間に、男ならば一度(ひとたび)陸に返した後、海に招き入れて食糧とする。彼女たちに肉親の情などなく、身体は交わることができても、意志を交えたもの未だ居ず。
だからこそ、人々は伝える。
冬の海、月のない星降る夜に漁に出てはいけない。海に近づいてはいけない。近づくと、人魚の『音』に捕まってしまう。
けれど、兵太はそれを知らなかった。
人魚の血を引きながらも、人間(ひと)の手によって育てられたがために、兵太の考えは人間のそれである。
兵太は、ただ『音』が――母が愛しかっただけなのだ。
血が広がる。兵太の血が。海面が深紅に染まっていく。
血の興奮に堪えきれず、人魚たちは一斉に声を上げて鳴いた。歌声のような澄んだ音。
ばしゃばしゃ
ばしゃ
尾が水を叩く。
ばしゃばしゃ
ばしゃ
腕が水をかきわける。
血に狂った無数の人魚たちが、兵太の身体に群がっていく。腕を咬み、肉を裂き、血を啜り、足を喰らい腹に牙を立てる。獲物を補食することは彼女たちの本能であり、そこに倫理など存在しない。
鳴り止まない『音』が、海の中に響き渡る。
さわさわ、さわわ。
水が流れる。
さわさわ、さわわ。
砂が囁く。
喧噪と狂気の海をよそに、頭上では星が静かに瞬いていた。
(了)
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